HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲4 Zimmer

5 風を奪う者


数分後、家から一番近い診療所に到着した。診療時間は過ぎていたが、医者はルイの診察をしてくれた。
「風邪ですね。お薬を出しておきましょう」
医者が言った。
「お薬? ぼく、苦いのいやだよ。甘いシロップのなら飲めるけど……」
ルイが言った。美樹は彼の現状を説明し、医者は納得して言った。
「わかった。じゃあ、甘いシロップのお薬にしようね。ドロップも出しておこう。オレンジとメロンの味があるよ。どっちがいいかな?」
「ぼくは、イチゴのがよかったんだけど、オレンジのもいいよ」
「では、オレンジのを……」

外に出ると風が冷たくなっていた。薬局は少し先にあったので歩いて向かった。
「あっ! 見て! 桜だ! 桜が咲いてる!」
そう言うとルイが駆け出して行った。
「ルイ! 駄目よ! 戻って来て! ルイ!」
美樹も慌てて後を追う。
桜は木によっては五分咲きから七分咲きになっている物もあった。
「きれい!」
そこは海に面した並木だった。この辺りでは早く咲くので有名だった。
「すごくきれいだよ、早く来てごらんよ、美樹」
そう言ってルイが振り向く。が、そこにいたのは彼女ではなかった。痩せた少年の影が桜の木の長い影に重なる。

「誰?」
後ずさるようにルイが訊く。
「……何だ。ろくに風も纏えてないじゃないか」
質問には答えず、少年はゆっくりと近づいて来た。着ていたのは藤ノ花高校の制服。街灯に照らされて、燻し銀のバッチが異様に光って見えた。
「いやだ。来ないで!」
彼はその闇に気づいて逃げ出そうとした。が、少年の手がルイの手首を捕まえた。


その頃、白桜文化大学の教授室で、ルドルフは庵と面会していた。
「あなたも能力者なのか?」
膨大な本の山に囲まれた小さな机の上にも、沢山の本が積まれている。二人はその机を挟んで向かい合うように掛けていた。
「なかなかせっかちなようですね、国際警察の方は」
庵が何冊かの本を脇に寄せて応える。そこにノックの音がして学生が一人入って来た。彼は二人の前にお茶と和菓子を置いた。
「蓮(れん)、この書類を事務室に出しておいてくれますか?」
「わかりました。先生」
庵が封筒を渡すと、学生はちらとルドルフに視線を走らせてから静かに礼をして出て行った。
「突けば、藪蛇になりますよ」

「では、別の質問をしよう。サイクロプスを知っているか?」
「オデュッセイアですか? それともギリシャ神話としての?」
「茶化さないでくれ」
「お答えしましょう。それは、私が招いた訳ではありません。私にそのような権限はありません。私は外部の人間です」
「何に対しての外部だと?」
「あなた方がご存知の組織ですよ」
「闇の民か?」
「それは実動隊の方ですね」
「では、その本体とは何だ?」
庵は軽く手を振って言った。
「一言では申し上げられませんね。深く噛み合っているのです」

「なるほど。では、もう一つ。あなたはハンスに国へ帰れと言ったそうだが、どういう意味だ? そもそも奴とあなたとの関係を知りたい」
「うねりが起きているのです。自然と満ち欠けが起きる月の記憶を育んで来た民の歴史が変わろうとしているのかもしれません」
高い所に一つだけある小さな窓の向こうで闇の風が動いていた。
「彼の母親は私の母でもあるのです」
「では……」
「血の繋がりはありません。あなたと同様に……。しかし、梳名家の者として、絆で結ばれているのです。もっとも今ではもう存在しない家になってしまいましたが……」
風の流れが変化していた。
「あなたには感謝しているのですよ。美和様が亡き後、彼を育んでくださったこと」
「感謝される覚えはないな。俺はあれに生きる術だけを教えた」
「しかし、大切なことです。知恵を学ぶということは……。そして、生きるためには殺さねばならないということ……」

隙間なく並んだ本の背表紙を男は目で追っていた。
「あなたも殺すのか?」
「人は多くの命を貪って生きているものですよ。そう。この私も……。あなた方と同じように……」
「本が好きなようだが、あなたも優生論者なのか?」
「そういうことをおっしゃる方も会の一部にはおりますが、私は支持出来ませんね。多様性を否定してはより良き発展は望めないでしょう」
「同感だ」
不意に庵が立ち上がり、窓の向こうを透かすように見た。
「あなた、今日はここまでご自分で車を運転されて来たのですか?」
庵が訊いた。
「A級ライセンスは持っている」
「緊急の用事が出来たのです。もし、あなたが同行を望むなら、私をあなたの車で送ってくれませんか?」
「緊急の用事とは?」
「美羽様のお子に危険が迫っています」


闇の風に包囲されて、ルイは戸惑っていた。
「痛いよ! 放して!」
が、少年は放すつもりはないらしい。卑屈な目で、じっと彼を見つめている。
「ルイ!」
その時、美樹が来て彼を庇うように抱いた。
「やめて! うちの子に何をするの!」
少年は無表情のまま彼女を見た。
「美樹……怖い!」
ルイは怯えていた。
「放しなさい! 警察を呼ぶわよ!」
彼女はバッグの中から携帯を取り出そうとした。
「大丈夫よ。ルイ、あなたはわたしが守る。どんなことをしてでも、必ず守ってあげるから」

バッグの中には銃も入っていた。それで脅せば立ち去るだろうか。しかし、彼女はそうしなかった。携帯だけを抜くと固いバッグを少年の顔面に向けて叩き付けた。怯んだ少年の隙を突いてルイを引き寄せるとその手を取って全力で走り出した。
「逃げるのよ! 早く! あの診療所まで……」
風が彼女の髪を靡かせ、頬を震わせた。
「……おれは選ばれたんだ。菘や吹雪とは違う。おれは実力を買われてここに来た」
少年が呟く。
「おれは……」
足下に落ちているバッグの口が開いて中身が散らばっていた。手帳やペンや財布にポケットティッシュ、そして、小さなモデルガン。
少年はその銀色の銃を拾った。

「美樹!」
「大丈夫よ。あれは……」
少年の指がトリガーに掛かる。
(火薬のにおい……。駄目だ! あれは本物の!)
次の瞬間、銃声が響いた。咄嗟にルイを庇った彼女の身体が崩れ落ちる。
「美樹!」
握っていた携帯が滑り落ち、どこにも繋がらないままの電子音が数回鳴って切れた。
「美樹! 美樹! いやだ! 目を開けて! 死なないで! 美樹!」
ルイがその身体にすがり付いて叫ぶ。

「馬鹿な女だ。邪魔するなんてひどいですよ。おかげでターゲットを間違えちゃったじゃないか」
少年が言った。
「美樹!」
ルイはまだ彼女の傍らにいた。
「銃なんてどこがいいんだろう。役立たずの命しか殺せないなら……。風の力の方がいい。おれを裏切ったりしない闇の力で……。さあ、連れて行ってやる。おまえを夜の国へ……」
「夜の……?」

――女の子は夜の国へ行ったの。だけど、男の子は……

渦巻く風のうねりが稲妻のような速さでルイを襲った。
「Nein!!!」
その瞬間、凄まじい殺意が並木の通りを駆け抜けて、風の絆を捻じ切った。


その衝撃は遠く離れていた庵にまで伝わった。
(絆が切れた……!)
それは繋がった者の死を意味した。それは魂を砕かれるような痛みを伴った。
「おお……!」
車の中にあって、庵は思わず片手で顔を覆った。
100キロ近いスピードで車は夜の街を疾走した。

――記憶……解れた
――風の
――夜の国に……
切れ切れになった思考と言葉の闇が交錯していた。


海岸通りまで来ると車が進めなくなった。暴風に押されてハンドルが効かなくなってしまったのだ。ルドルフはやむなく車を歩道に寄せて停めた。
「ここは危険です。あなたは車で待機していてください」
そう言うと庵はドアを開けた。
「いいだろう。だが、必要があれば、俺は降りる」
「どうぞ。ご自由に」
それだけ言うと、庵は強風の中を歩き去った。

空は闇に覆われ、地上では突風が吹き荒れていた。街路樹は折れ、4tトラックでさえ飛ばされて横倒しになっている。幸いだったのは、その近くは木造の民家がほとんどなく、大半の風が海側へと流れて行ったことだ。

それは一見嵐にも似ていた。しかし、そこに吹き荒れていたのは能力者によって引き起こされた風だった。彼らは風を纏い、気流をコントロールする力を持っているのだ。

「ルートビヒ……」
嘶く風の矛先に彼の姿は見えなかった。手遅れかもしれないと庵は思った。闇に呑まれてしまったのならば、もはや救う方法はない。そして、ここには闇の風が蔓延していた。
「急がなければ……」
庵は風の流れを追って道路上を進んだ。


並木は数百メートルに渡り、枝や幹が折れ、電線が切れたせいで広範囲にわたって停電が起きていた。ルイの中で爆発的に目覚めたガイストの力と少年のそれとが激しくぶつかり合ったせいで、突風が吹き荒れたのだ。道路上には倒れたり飛ばされたりした電柱や縁石、網目状の柵などが散乱していた。

空に星はなかった。が、訓練を受けていた少年は夜目が利いた。少し慣れれば、並木の向こうに建つ巨大なビルの影も見えた。それは幾つも連なっている。その隙間から吹いて来る風を読んで、彼は自分のいる位置と方向を確認した。
「奴はどこだ」
足を踏み出そうとした時だった。
「もう、彼を追う必要はない。芹沢息吹(せりざわ いぶき)。おまえの役割は終わりました」
闇の中から低い声が響いた。
「わかりました」
少年の声に感慨が滲む。
「でも、随分桜を散らしてしまったようだね」
相手の表情は見えなかった。
「並木が台無しだ」
「すみません。チャンスを与えてもらったのに……」
少年は詫びた。が、男は抑揚の無い声で言った。
「そうだね。でも、おまえは幸せですよ。美しい桜の滋養になれるのだから……」
それだけ言うと、男は足音もなく離れて行った。そして、新たな闇の風が噴き上がり、少年を夜の国へと導いて行った。


ルイは風に翻弄されていた。自分に何が起きたのかもわからないまま、並木の奥まで飛ばされて、息吹とは100メートル程離れた場所に倒れていた。
「ルートビヒ……」
庵が名前を呼ぶと、彼は薄く目を開けて言った。
「……ここはどこ?」
それから周囲を手探りして叫んだ。
「桜……。そうだ。一緒に見に来た。あの子はどこ?」
彼は勢いよく半身を起こして言った。
「いなくなっちゃったんだ。僕の女の子が……」
そうして、彼は肘を使ってずるずると這った。
「女の子?」
庵が訊いた。すると、彼は首を曲げて庵を見た。
「そうだよ。ぼくの女の子がいなくなっちゃったの! ぼくを置いて、どこにもいないの! 女の子が……!」
「何を言っているのです。落ち着きなさい!」
「だって、ここにいたんだ。さっきまで……」
路面を這いずり、彼は喚いた。周囲には血が付着し、ガイストが溢れていた。折れた枝が風に運ばれて行くように、彼の動きはどこか不自然さを伴っていた。

「身体が……」
その違和感は闇に溶けて曖昧になった。
「返してよ」
庵を見上げて彼が言った。
「ぼくのあの子を返して……」
袂を掴んで揺する。
「あの子が死んだのはおまえのせいだ!」
泣きじゃくる彼の背に映るのは子どもの影。
「返さないのなら……!」
糾弾するように彼が言った。鋭利な爪が闇を裂こうと身構えている。

「私は何もしていませんよ」
庵が言った。
「でも、仲間だ。おまえはあいつの仲間。殺してやる! おまえ達の仲間はみんな……!」
吐き出した風がけたけたと笑う。とても正気とは思えなかった。恐らくは絆を断ち切った衝撃で開いた隙間に闇に入り込まれたのだろう。そういうことも、決して珍しくはなかった。負の感情に支配された能力者の心は破壊的な力を持つ闇の風の触媒になる。
そうして悲惨な事故や災害の記憶を持った風のトリガーとなり、結果として、再び災害を引き起こす手助けをしてしまうことになる。そして、一度闇の風に捕らわれてしまえば、その風と運命を共にするしかない。
「殺す!」
彼の心の隙間から溢れ出た闇の風が一斉に噴き出した。一度収まっていた暴風が再び猛威を振るい始める。
「未熟な……」
庵はその闇を絡め取った。
「邪魔をするな!」
闇と同化した彼が叫ぶ。気流が上昇し、風の渦が膨張して行く。竜巻が地上を蹂躙し、破壊する前に、庵は生まれる前の風を狩った。
――なぜ?
闇の子どもが駆けて行く。

荒れ狂っていた風はやんで、周囲はただ、夜の静けさに包まれていた。
「どうして……?」
彼は力を失って空を見つめた。
「悪しき歴史を繰り返してはなりません」
「歴史? そんなの僕、知らない」
彼が言った。
「風は知っているのです。だから、それを外部記憶として読み込み、人はそれを再生して使えるようになるのですよ」
男の声はだんだん小さくなって、風の声がそれに変わった。
――ぼくは……生まれて来たかったんだ
子どもが言った。
「そうさ。僕は生まれて来たかった。母様のもとに……やさしかったあの母様の……。そして……」
もう一人いた。大切な人。それは誰だったろう。記憶が混沌とし、思い出せずに両手で宙を掻いた。

――ルイがピアノを弾いたのよ
――ショパンのワルツじゃないか。美羽、君が教えたのかい?
遠雷のように鳴るピアノと両親の声。

「おまえはいつから闇を使っているのです?」
庵が訊いた。
「生まれた時からずっと……」
囁くように風が応える。
(そうだ。僕はいつだって……)

――ここに入っちゃいけなかったのよ

――それじゃあ、生まれて来なかった命もあるの?

「みんな、僕から大切な者を奪って行くんだ! 母様や、友達や、そして……」

――美樹は僕の宝物

「ああ。そうだ。美樹。美樹だよ。僕の可愛い女の子。僕の愛! 僕のすべて! 僕の美樹!」
彼は叫んだ。
「それを奪った者を僕は許さない! 世界のすべてを、僕は憎む! そして破壊してやるんだ。何もかも……!」

「短絡的な……。おまえにそのような力はありません。己の実力を鑑みなさい」
哀れむように庵が見下ろす。すると、彼は首を曲げてその目を見た。
「出来ないと言うの?」
着物の袂を掴むと彼は微笑した。
「大丈夫だよ。風ならここにたくさんあるじゃないか。さっきは失敗したけど、今度は逃がさないよ」
漆黒の瞳に光が灯った。と同時に、闇の中から伸びた手が庵の胸に滑り込んだ。闇が反転するように、互いの力が合わさって逆流して行く。
「私の風を奪うつもりなのか」
「さっきは僕の風を奪ったでしょう?」
その手が伸びて男の首に絡み付いた。
「返してもらうよ、僕のすべてを……」
負傷していた傷が癒え、彼の身体の欠損していた部分が修復されて行くのを庵は目撃した。
「放しなさい! この手を……」
「じゃあ、もう僕を殺さない?」
そう言うと、小さな子どものように無邪気な顔を向けた。それから、ふっと目を細めると恫喝するように音程のない声で言う。
「殺すなよ、僕は生まれて来たのだから……」
瞳の奥に隠された部屋で遊ぶのは闇の子ども。
「おまえは……一体誰なのです?」
「僕は僕だよ。ああ、よかった。あなたが昔僕と絆を結んでいてくれたから……。僕はそれを使って力を取り戻すことが出来る」

切れた筈の絆が透明な鞘となって復元して行く。細いストローのようなイジェクターを通過した風が互いの闇に浸透し、能力を高めていく。が、庵は引きずられまいと、危険を承知でその絆を断とうとした。繋がっている者の命を……。
瞬間。
「……!」
風下から飛んだ銃弾が庵の胸部を直撃した。
が、彼は動じず、静かに振り向くと、そこに長身の男が立っていた。銃口からはまだ微かに煙がたなびいている。

「あなたでしたか? 今のは全く気配を感じられませんでしたよ」
苦笑する庵に、男は冷淡な口調で言った。
「俺は感じたがな。貴様の殺意を」
「ええ。愚かな子どもの安楽死を願って……」
そう言うと庵は首に絡み付いていた子どもの手をそっと外すと、ゆっくりとした動作で立ち上がった。が、その身体の何処にも弾丸を受けた痕跡はなかった。
「命中したと思ったんだがな」
ルドルフが鋭い目で言う。
「ええ。確かに。寸分違わず急所を通り抜けて行きましたよ。しかし、私にはまだやらねばならないことがあるのです」
その時、闇の中から呼ぶ声がした。
「庵先生! こっちです」
海に現れたモーターボートだった。乗っているのは蓮と呼ばれていたあの学生だ。

「なるほど。銀狼ですか。いい腕をお持ちだ。いくら能力者だとしても、まともにその攻撃を受ければ、即死は免れないでしょうね」
「その名は捨てた。ルビーがダーク・ピアニストを捨てたようにな」
「なるほど。民の持つ情報は古くなったと伝えておきましょう。では、連れが待ち疲れているようですので、私はこれで失礼します」
庵は灯りのない道を歩いて夜の海に消えた。

「おい、逃がしちまっていいのか?」
背後から声がした。それは、美樹の家からずっと彼らを尾行して来ていたアルモスだった。
「機会はいくらでもあるさ。それに今、俺達は他にやることがある」
「そんじゃあ、俺は女の方を運ぶ」
「いいだろう。ただし、半径2キロはジョン達が閉鎖している。通路から歩いて基地に入る。俺の車のトランクにシートがある。持って来てくれ」

アルモスが行ってしまうと、男が言った。
「ハンス、起きてるか?」
「ああ」
仰向けのままで、彼が頷く。
「美樹は?」
ゆっくりと首を曲げてルドルフに訊いた。
「無事だ。防弾チョッキが役に立った。今は意識を失っているが、直に目覚めるだろう」
「よかった……」
「おまえも戻ったようだな」
「でも、まだ歩けない。あの男、僕を殺そうとしたんだ」
「殺しに行くか?」
「いや、今はまだ眠い」
そう言うと彼は目を閉じた。


ハンスと美樹が家に戻ったのは夜明け前だった。運ばれた病院で簡単な検査と治療を受けた後、二人はすぐに家に帰りたいと言った。子猫達にフードを与えていなかったことを、美樹は気にしていた。ハンスの記憶は無事に戻った。が、逆にルイでいた時のことはほとんど覚えていないようだった。
「でも、あなたの記憶が戻って本当にうれしい」
美樹が言った。
「そうですね。でも、せっかく子どもになっていたのなら、もっといっぱい美樹ちゃんに甘えとけばよかったです」

そう言って抱きつく彼を見て彼女は笑った。
「あまり変わっていないような気がする」
「そんなことはありませんよ。僕は立派な大人ですから……」
リビングに入ると猫達は眠っていた。
「明日は早くごはんをあげましょう。それにミルクも……」
ハンスが言った。
「そうだ。キッチンにいろんな物出しっ放しのままだった。片付けて来ちゃうね。ついでにお茶でも飲む?」
「いいですね。じゃあ、僕もその辺を片付けておきます」
そうして、美樹は台所に向かった。その間に彼はカーペットに散らかっていたおもちゃや絵本を片付け始めた。
「また、ここに戻って来れた。この日常に……。そして、女の子は無事だった。男の子はどうだったろう?」
次々と拾ってトイボックスに入れて行く。
「それにしても、これをみんな、僕が散らかしてたって? 信じられないな。これじゃあ、足の踏み場もないじゃないか」
そして、最後にテーブルの上にあった積み木を箱に戻していると、美樹がカップをトレイに乗せて近づいて来た。

「ココアを淹れて来たんだけど……」
そこで言葉が途切れ、彼をじっと見下ろしたまま静止した。
「美樹ちゃん……?」
ソファーに掛け、片手に積み木を持っていた彼が訝しんで見上げる。
「ちょっと! 何をやってるの?」
「何って片付けているですよ」
「それは……ルイが作ってくれたのよ! ルイがせっかく……わたしのために……」
「美樹ちゃん……」
「ルイが……!」
美樹はそう叫ぶと階段を駆け上がって行った。

「美樹! 待って! 美樹!」
崩れた文字がテーブルの上で愛の断片を語る。
Ich liebe...
ソファーの上にも一つ、iが転がっていた。

「美樹……」
ベッドの中で彼女は嗚咽していた。
「愛してるって……。Ich liebe dichって……。小さいルイが一生懸命作ったの。わたしのルイが……」
ハンスはそっとその背を撫でて言った。
「ごめんね」
彼は詫びた。
Ich liebe dich.
何度も囁き続ける。Ich liebe dich.


そうして、時計の針が幾度か回り、彼女は涙の跡を残したまま眠ってしまった。
「Ich liebe dich.」
彼はそっとベッドを抜け出すと、書斎に入り、チェストをずらした。すると、そこに小さな部屋に通じる階段が現れた。ハンスはゆっくりとその階段を下る。一歩、もう一歩。大切な思い出を踏み締めるように降りて行く。そこは木と紙と、甘いボンボンの匂いで満たされていた。

「ここは……美樹が愛した小部屋……」
そこには様々な玩具や本が並べられていた。ぬいぐるみもあった。バレリーナの入ったオルゴールも……。アルバムも時間割も空白のままだったが、新しく来た小学4年生の教科書が増えていた。
「生まれて来なかった人間の……。ガイストが育んでいた命。ここは、君の心の居場所だったんだね。だから、邪魔はしないよ」
見ると、床に一つ、ビー玉が転がっていた。彼はそれを拾うと光に翳した。そこに映っていたもの。それは取り出すことが出来ない過去。凝集した時間の孤独。

――おまえはいつから闇を使っているのです?
――生まれた時からずっと……。

「約束しよう。僕は決して君の居場所を奪ったりしない。君は、ずっとここにいていいんだよ。ずっとここに……。ツィマー、君の部屋に……」

Fin.